2010年9月11日土曜日

みな、違う


色々な人生があって当たり前なのだから、と強く思います

小さい頃からの3つのタブー
それは余程親しくない限り「信念(無信仰、信仰など)、家族、政治」のことは話さないのが
その人に対してのエチケットだと言われました
その人が信じるもの、望むものや、家族構成、家庭の事情、価値観
全部、皆違うのです

だから恰も「当たり前」の様に
この思考は良くない、宗教は悪い、何教は悪い、家族そろっていることが当たり前、と
言葉やブログで綴る現場に以前から疑問を感じています
もしそのように言っているつもりは意識的になくても
そう受け取ってしまう可能性も無きにしろあらず

ブログとはその人自身の現場、世界、表現の自由の所謂「なんでもあり」の
良くも悪くもの解放地帯なのでしょうが
頭ごなしに
「これがいい、こうしたほうがいい、あれはだめだ、あれを食べては、信じては駄目だ、あの人はいい....など」
と言うものを押し付けられることほど不快に思うこの数年です

よく私は「〜せよ」と使いますが、それは自分に対しての言葉として使用しています

ようは何が言いたいかと言うと
押し付けがましい、その人の、誰かの価値観を人に押し付ける会話、文章、ブログからも
離れたくいます

普段、パソコンをあまり利用しない私が言うのもなんですが
利用しなくなったのも、自分には必要がないと察したからです

この先、更に「情報」が増え、膨らみゆく世界に身を於くよりは
気に入っている本、偉大な本、散歩をしていた方がいいや、と私は思っています。

逢ったこともないのに、非難中傷、あり得ないこと、をおかしく楽しく書く人や
上記のように....宗教、家族、政治について自分の軸、芯をひとに押し付ける様なもの
私はとても厭で苦痛です

故、私はそういうことをここの場で強く書くことは以前から控えさせてもらっています

人それぞれの生き方があり、価値観があり、善し悪しも「皆、違います」

自分にとり「宗教、家族、政治」のことは本当のプライヴェートにするのが
自分の生き方だと思い、日びを送っています

だから
そのことを根から遠回しにでも表現し(これは自由ですし、良いことだと思います)
それを人に「押し付けること」をしている人に対しては離れました

みな、十人十色です
読んでいる側に、聞く側に、そういう「配慮」をすることが礼儀だと思います

中国人だと思ったら日本人だった
キリスト教だと思ったらユダヤ教だった、無神論者だった

人が傷つき、不快に、喜び、快活に思う「節」という感受が違うこと
歴史や文化、生きて来た背景が違うこと
もっと考えた方がいいのだと思います

本当はみな、丸く仲良くなれたらいいのだと思います

しかし、心の中で何かを差別したり、人を憎んだり、決めつけている間は
溝と隔たりばかりなのでしょうね

最近、特に強く思うことでした



写真 マーグ財団美術館にて
ジャコメッティーの「le chat(猫)」の前
面白い写真だと思います
ひとつの作品の前で3人の人達
みな、違いますから

写真を撮る子供、見守るマダム、デッサンする若者、それを撮る私
同じ方向を観ていても、やっていることと視線が全部違う