2011年9月10日土曜日

カエルを見ていた

パリに戻り...私はいつも通りクラシックピアノへ没頭する日びに戻った

この夏の課題はリストとプロコフィエフだったがツアーと移動を繰り返しており
中途半端なまま放置していた故、
今、楽しい譜読みを日びしている。

譜読みは家の土台作りと似ている。


今まで私は震災に対して自分が感じていることを綴ることはしなかった。
少しばかり記す。




この夏、家の土台だけが残っている風景を目の当たりにした。

お盆前に東京駅から東北新幹線に乗る時
あまりに心臓が震えて少しの過呼吸になっていた自分がいた。
久々に駅弁でも...と思い購入したものの窓側の座席に座ってから
ただボーっとしていた。


福島が近づくにつれて、乗車率120パーセントの車内の人々は
かじりつくように、どこの席の人も
窓の外を遠い目でずっと見ていた。


3月、私は涙をどこかに忘れて血眼で...ただただ必死に
インターネットの震災死亡者欄に弟と友達達の名前を探していた。

当時、やはり水を飲むだけで胃が痛く横になっていたことを思い出す。


親とも連絡が取れない状態だったが、その後無事が確認でき
弟の行方不明者届けを既に出していたことを知る。


時が流れて、何とか生きていた弟と陸前高田と気仙沼へ行った。
もう何か分からない物体を踏みながら
黙ったまま海を見ていた。


少し内陸にある県南の地元も、全壊している家や道路がデグデグに盛り上がり
ジャングルにあるコンクリート道を走っている感触だった。

ニュースではわからない現実が人間模様があって
私は言葉が人前で容易く出なくなってしまっていた。



地元の大文字焼きを母と見に行った。
燃やす材は、陸前高田の瓦礫だった。
....それは人々が生きていた証の火文字なのだと
祈っても祈っても、祈り続けることだけが自分にとっての救いでもあるかのように思えた。


毛越寺の池の周りで沢山のお坊さん達が
朗朗と灯籠の前でお経を詠み続け
お盆が終わろうとしていた。



私は何で生きているのだろう
生かされているのだろう......と
幼い頃のように
ススキを手にもってカエルを見ていた。